13-03-31: すれちがい
少し前から、生物学者のユクスキュルの書いたものが気になって、つまみ読みをしている。岩波文庫『生物から見た世界』をはじめ、現在では日本語で読めるものが増えている。精緻に読んでいるわけではないので正確な要約はできないが、自分の受け止めた感じでいえば、ユクスキュルは世界はそれぞれの生き物の知覚と相関して異なる様相を見せるのであって、唯一絶対的・客観的な世界像は必ずしも成立しない、ということを実例を示しながら論じている。『荘子』の冒頭を思わせるものでもある。
学生時代に廣松渉を読んで、人が世界を認識することのとらえ方が根底からゆるがされたことが思い出されてある種の懐かしさも感じたが、比較的最近翻訳の出た『動物の環境と内的世界』の解説などを見ると、ユクスキュルの前提にカント的認識論があるとのことで、その点でどうやら同じ根っこを持っていたのであった。廣松の論が、難解な言葉遣いで若い自分を苦しめたのに対して、ユクスキュルの論は実例にもとづく自然科学の説明なので、認識の相対性を理解しようとするには近道のように思える。タイムマシンで20数年前に戻れるなら、当時の自分にはこちらを薦めることだろう。
世界の見え方が種によって異なり、その意味で相対的だというのは、自分にとってはいろいろな意味で離れることのできない問題である。世界は相対的なんだ、と言って済ませられないという意味でも。
ある時期、精神分析への興味を抱いていたことがある。唐突な話に響くかもしれないが、自分にとっては、ユクスキュルの話とも交わるものである。二人の人間は、同じ話題をめぐって会話していても、同じ話をしているとは限らない。ラカンに関する概説書や臨床的な入門書を読んでいると、彼の理論の基本はそんなところにあるように思えてきた。端的にいうなら、人の会話につきものである「すれちがい」。それをとらえて、何か人の心のあり方を考えるヒントを得ようとしている。他方、ユクスキュルは、例えば犬と人間の見る世界のあり方の違いを指摘する。もちろん分析の方向性は違いながら、「すれちがい」の存在を認めて、それをとらえようとするという点で通じている。
よくよく考えると、自然科学や精神分析よりも早い時期から、この「すれちがい」を扱ってきたのが文学という領域である。早いからエライなどというつもりは毛頭ないが、大掛かりな理論的仕掛けを用意せずとも、この「すれちがい」の存在を認め、その具体的様相をさまざまに描いてきたのが文学である。例えば、人が恋をしているときには、この「すれちがい」は誰の胸にももどかしさを伴って湧き上がり、そのリアルさゆえに人を哲学者にまで仕立てることが往々にしてあるが、恋に関わる文学を読むときにもその疑似体験は生じる。「すれちがい」を解消したいという実践的課題は必ずしも解決はしないのだが、「すれちがい」が世のあらゆるところに存在するということは了解される。ここでは、多くの場合「すれちがい」は分析されないが、日常生活の中から典型化された描写によって抽出されて、人々の前に提示される。
こうした様々な「すれちがい」を見据えないと、世に数多くの宗教が存在することは理解されないのではないか。道半ばの三流宗教学者は、新年度を目前に日本の宗教思想のある部分をとらえなければならない局面に立って、そんなふうに感じている。